シンエイ藤子アニメ 24 周年記念スペシャルインタビュー


福富博監督・本多敏行作画監督


FUKUTOMI HIROSHI & HONDA TOSHIYUKI


24 年たった今も色あせない名作『ドラえもん のび太の恐竜』『怪物くん怪物ランドへの招待』。初の映画作品『のび太の恐竜』、『怪物くん』という第二の新しい柱の立ち上げ、初の二本立て映画興行を支えた『怪物ランドへの招待』、藤子アニメ初の高年齢向け作品『プロゴルファー猿』テレビスペシャル版。常に藤子アニメの地平線を広げる作品に抜擢されてきたお二人。福富博監督(写真・左)・本多敏行作画監督(右)に、両氏が所属するアニメスタジオあにまる屋さんにてインタビューをさせていただきました(全文は本誌でお楽しみください)。



―福富さんがアニメに携わるようになったきっかけをお聞かせください。


福富 最初は高校の頃、新人発掘に力を入れていた手塚治虫さんの漫画雑誌『 COM 』に投稿していました。それから漫画と映画の両方が好きで、アニメをやろうと思って、アニメーターになる為の方法がわからなかったのでとりあえず東京デザイナー学院に入学しました。でも授業にあまりでなくて、アニメーション倶楽部で短編を作ったりしていました。そのうち 1 年くらいで中退して、アニメーション倶楽部倶楽部の友だちと新宿でフーテンのような生活をしていました。新宿の地下で寝てた折り、たまたま下にしいていた新聞に電車賃と昼食代がでるというAプロ(現:シンエイ動画)の求人広告があって。電車賃と昼食代を目当てに応募したら、受かってしまいました(笑)。それが 1970 年かな。
 当時の Aプロは『巨人の星』( 1968 年)をやっていて、動画をやりました。続けて『ルパン三世』( 1971 年)『ど根性ガエル』( 1972 年)と動画をやっていたんだけど、あるとき呼ばれて、「お前原画にならないか?」と言われたんですが、その時には演出に興味が移ってしまっていましたので、「演出の方向に行きたい」といったら、大塚康生(『ルパン三世』『未来少年コナン』作画監督)さんに相談してみるって言われて。初めてやったのが『侍ジャイアンツ』( 1973 年)のコンテでした。それから『はじめ人間ギャートルズ』( 1974 年)だったかな。他の人は、次々と『ガンバの冒険』に行って、最後は私一人になっちゃって、最終回は脚本もやりました。


―本多さんのご経歴も伺えますか?

本多 こどもの頃は、ちばてつやさんの作品が好きでした。 Aプロに入ったのは 1969 年で福富さんより 1 年早かったのかな。コネで入りました(笑)。当時のAプロの社長の楠部大吉郎さん(現シンエイ動画会長)の父上が私の高校の先生の知り合いで、就職先の決まっていなかった私を楠部さんに紹介してくださったんです。絵のヘタな私のめんどうをみてもらった楠部さんには頭が上がりません(笑)。
 原画試験では、跳び箱と、ルパンのガンアクションと女の子が石を持ち上げるというのがありました。同時に試験を受けた青木悠三さん(『ルパン三世 PARTIII 』キャラクターデザイン)は天才で、ルパンが岩に隠れてバンバン打つすごくかっこいいガンアクションをあっという間に仕上げて。当時絵は全然かけなかったので、とにかく笑いを一つ入れようと思って、女の子が薬を飲んで力んで持ち上げるというのを書いたら、大塚康生さんが面白いって言ってくれて受かりました。おかげで、基礎ができていなかったのであとでえらい苦労しました(笑)。
 当時は放映してしまえばそれまでだったから、本編にスタッフの似顔絵を描いたり、みんな楽しんでいましたね。今より余裕というか、スタッフにもユーモアがあったような気がします。一度『ど根性ガエル』のピョン吉の替わりにガマガエルを描いて出したら、作監の芝山さんがもっとリアルに修正されたガマガエルになって戻ってきたことがあります。さすがにそれは放映されなかったですけど(笑)。


テレビシリーズの『ドラえもん』のお話を伺えますか?


福富 楠部三吉郎(現シンエイ動画社長)さんに呼ばれて旅館で『ドラえもん』の企画書を書いたのを覚えています。オープニング(日曜版)の絵コンテもやりました。作画は本多さんです。
 あと、のび太君がなんでもドラえもんの道具に頼り切りなので、一度四次元ポケットを使えないお話を作りました。「のび太の夢の金メダル」( 1980 年 5 月 5 日放送)という特番で、最初は四次元ポケットにバンソウコウまではったりしました。四次元ポケットは使わない話になっています。


―こちらにF先生や制作スタッフが車座になって、

  映画『のび太の恐竜』の打ち合わせしている写真がありますが?

本多 これは(資料を見て)、あにまる屋(あにまる屋の社屋は当時のシンエイ動画社屋のため)の和室ですよ。宣伝用に打ち合わせ風景を撮ったんじゃないかなあ。真剣な顔して(笑)。
 映画の黒い服の男とかはプロレスが好きなのでその衣裳を参考に私が描いたんです。だからドルマンスタインも全然藤子作品らしくないでしょ(笑)。人物とメカは私が描いてから藤子F 先生にチェックしてもらったんです。タイムマリンなんか芝山さんに、新幹線におっぱいつけたみたいだぞって笑われました(笑)。美術設定はレイアウトを担当してくれた芝山努
さんのあか抜けたイメージが生かされていると思います。


本多さんの『怪物くん』の作画についてうかがえますか。


本多 A先生には、耳と手足を大きくしてくださいとだけ言われました。あとは自由にやらせてもらえました。それから、私は、頭身が下がっていくくせがあって、描いていくうちに怪物くんの頭身がどんどん下がって行きました(笑)。2年目のときに、キャラクター表を書き直して、やっと自分の世界をつかんだねとか周りから言われたんだけど。ものすごく寸づまった絵になっていましたね(笑)。


―貴重なお話しをいただきありがとうございました。

2003.3.29

あにまる屋にて
取材:えすけいぷ・目黒広志・てふてふ



福富博 プロフィール
( 1950 年 7 月 25 日 高知県生まれ)


1979  ドラえもん TV 企画書  OP  各話演出
1979  ドラえもん  のび太の恐竜 映画 監督
1980  怪物くん  TV  監督
1980  怪物くん 怪物ランドへの招待 映画 監督
1981  怪物くん デーモンの剣 映画 監督
1982  プロゴルファー猿  TVSP  監督


本多敏行 プロフィール

( 1950 年 9 月 22 日 群馬県生まれ)

1978  ドラえもん  TV  作画監督
1979  ドラえもん のび太の恐竜 作画監督
1979  怪物くん  TV  作画監督
1980  怪物くん  怪物ランドへの招待 作画監督 
1981  怪物くん デーモンの剣 作画監督
1982  プロゴルファー猿  TVSP  作画監督
1983  『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』 映画 レイアウト
1984  『ドラえもん のび太の魔界大冒険』 映画 レイアウト
1985  『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』 映画 レイアウト
1986  『ドラえもん のび太と鉄人兵団』 映画 レイアウト
1987  『ドラえもん のび太と竜の騎士』 映画 レイアウト
1988  『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』 映画 レイアウト
1989  『ドラミちゃん ミニドラ SOS!!! 』映画 レイアウト


スペシャルサンクス:
・豊永ひろみ氏(あにまる屋)

・T.Yoneyama氏:『のび太の恐竜』『怪物ランドへの招待』他資料

・T.Oohata氏:福富監督対談記事情報


あにまる屋  http://darumad.hp.infoseek.co.jp/index.html